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自分の価値

自分の想いや思考の流れを書いてみるというのをたまにはやってみます。

かつてはそういうものばかりだったんだけど、それはそれはひとりよがりなものだったので、そうならないことを祈りつつ。

昨年11月14日に「わたしは箏をもちいて公に貢献することを決意した」とある紙に書いたんですね。

「わたしの音でたくさんの人を癒す」と書いたんです。

それが強力に効いてきている。

今週、今年最初のしんえんがありました。今月多忙だったせいもありますが、自分が入れる曲が全然ないなって感じだったんですね。

コードだけとか絶対音感やらで即興で演奏できちゃう人たちがうらやましくてうらやましくて、自分は能無しだなって思ってた。これまでも思い続けてきたことだったけど…。この日はとくにけっこうしょんぼりしてた。

それでも会場に行ったのは、わたしが弾けば200人を癒して公に貢献することになると思ったから。

そしたらね、不思議なことがおきたんだよ。

あるお客様に「箏弾いてたかた?あなた上手だったわよ。他の人たちは全然だったけど。」と言われました。わたしは自分は下手くそで能無しだとずっと思ってきたから「え?この人どこ見るの?」と思いました。

そう、”どこみてるの?”

神様からわたし自身に「お前はどこ見てるんだ」と言われたような氣がしました。

わたしは五線譜やコード譜ですらすら弾けなかったり、聞いても音程が分からなかったりすることや、ミスタッチの多さ、手のまわらなさを見て、自分はだめなやつとしてきたけれど、他の視点から他の面を見てみれば、十分価値あることできていのではないか。

それから、今回しんえんのスタッフ役をつとめてくださったしゅんらいさんにお年玉をいただきました。ポチ袋に「優しい美しい琴の音色いつもありがとう」と書かれていてなにか色々な想いがわき上がってきました。

わたし”優しい音”を出しているのかとか、わたしの演奏に価値を見いだしてくれる人がいるのかとか。

“優しい音”とは、先月友人のしろくまちゃんにも言われたばかりだし、四年くらい前のライブでもそういえば何人かに言われた。そうか、わたし癒しの音、昔から出せてたんだなって。

それからわたしは自分の演奏に価値はないと、どこかぬぐいされず思ってるところがあった。自分ではいいと思っていても、それはどうせきっと自己満足でひとりよがりで、誰も興味をもったりしてくれないだろうとか思ってた。

そういうこれまでの思い込みが、崩れ、覆された。

軽く明るい方向へ。

わたしはいてもいなくても変わらないどうでもいい存在じゃなくて、いることにも、音を発することにも価値ある存在であると思うことができました。

それで今回ね、五線譜やコードですらすら演奏できないことにコンプレックス劣等感を感じているということが明らかだなって。もう明らかに認めなければならない。

じゃあ克服するためにどうするかって考えてる。20弦買おうかなぁ。